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パリを中心に活動する劇団「桜文月社」の活動と、日々の原動力について。


by shuta75
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衣装打ち合わせ1

衣装打ち合わせ1_b0178452_9395686.jpg
衣装打ち合わせ1_b0178452_1010203.jpg2回目の参加となるFestival d'Avignonに向けての初衣装合わせ。今回はコスチュームに新しくKIM Yoonaを迎えて、演者二人の衣装も一新します。舞台芸術のスタッフと打ち合わせを繰り返し、アンティーク市をまわって時代背景に即した土台となる衣装を決め、加工を施して行きます。

パリを中心に活動している桜文月社は、言葉を全く・あるいは殆ど使わない「テアトル・ジェスチュエル」を中心に作品を発表しています。
アヴィニヨンで2年連続で発表する”La violoniste et l'esprit de la chaise(ヴァイオリン弾きの娘と椅子の精)”は、ほぼ動きと音楽のみで綴る長編作品です。昨年のアヴィニヨンオフで高評を頂き、再演の運びとなりました。


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以下、昨年フランスの日刊紙に掲載された記事です。

衣装打ち合わせ1_b0178452_9504887.jpg
音楽とマイムとダンスを混ぜ合わせた見事な視覚的舞台作品。
若い娘がなんとか物にしたいとバイオリンと葛藤する中、椅子から出てきた妖精によってそのバイオリンが重要なオブジェとなっていく。
極めてわずかしか用いられない言葉の中で、奥野衆英と市瀬詩子演じる登場人物が特別な魅力を醸し出していく。一つ一つのジェスチャーが驚くべき感受性と繊細さを含んでいる。ここには観客の想像世界を、あっという間に惹きつけ、呼び覚ます為の全てが提示されている。
子供の頃の穏やかな記憶の、あらゆる美しい世界。笑いと感動は見事な顔の表現や体の動きによって組み立てられる振付の中に、そしてこのユーモラスな状況のなかに既に約束されている。
この詩的で音楽的なお話は、同時に戦争によって奪われていった全ての才能に捧げるオマージュでもある。沢山の作品がひしめくアヴィニヨンの演劇祭の中において、見てよかったと思わせる作品。この二人の夢想家と瞑想的な精神に、家族揃って会いに行って頂きたい。

―ニナ・ボビジョ

※La Provence誌は”La violoniste et L'esprit de la chaise”を『2008年アヴィニヨン国際演劇祭OFFの優れた作品100選』にも選出している。

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(前半はほとんどストーリー説明なので省略)
とても視覚的な演劇作品。あらゆる言語の存在を越えた万国共通のスペクタクル。感動的で、全てが優しさとハーモニーの中にある。二人が二つの弓で一つのバイオリンを弾くシーンは、とても綺麗な音楽的一場面である。演じる役者の身振りは可笑しく、理解しやすく、沢山の繊細さとエスプリがある。

―ファニー・イネスタ



また以下はネット上の演劇専門サイトでの記事です。

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『rue du theatre』

"COUP DE CŒUR RUE DU THEATRE"
≪音楽的かつ詩的な魔法のような瞬間≫

桜文月社が2008年のアヴィニヨン演劇祭の名作の一つを私たちに届けてくれる。
<戦争によって失われた全ての才能たちへのオマージュ>とも考えて作られたこの作品だが、普遍的な舞台作品であり、そこには言葉の意味というものがバイオリンの美学と身体のハーモニーによって昇華させられている。

(中盤はストーリー紹介なので省略)

≪作品の技巧≫

全く、あるいはほとんど台詞を用いないこの作品は、音楽やマイム、ダンスなどを通して二人の演者が旋律的で詩的な世界の中に、繊細さとユーモアを持って私たちを引き込んでいく。
こんなにも魔法が巧みに使われているのは、そしてこんなにも激しい興奮があるのは、それは美しい話、つまりこのバイオリンの娘と椅子の精が二人の名手によって演じられているからである。
比類なきバイオリニストの市瀬詩子は、同時に彼女の楽器に忠実であろうとする若い音楽家の少女としての役でも非常に優れた演技を見せる。彼女の的確な身振りは彼女の役柄を通して気持ちを良く表している。そしてマルセル・マルソーの完璧な教え子である奥野衆英は、エスプリと感動とばかばかしさたっぷりのマイムで名を上げる。二人一緒になれば、彼らの巧みさで目をくらまされてしまう。
とりわけ、まるでピアニストが4つの手を使って連弾するのと同じように、二本の弓でひとつのバイオリンを弾くシーンは最たるものだ。

特別なアーティストが出会うとき、幸せで純粋な時間だけを生きることが出来る。しかしそれは稀なことである。とても稀なことである。
                                            
イドリッサ・シベリー

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フランス唯一の日刊演劇サイト『Les trois coups』
こちらは2回掲載されたのですが、違うジャーナリストさんが、それぞれの記事を書いております。


≪ひとつのバイオリンのためのデュオ≫

バイオリン弾きの娘の苦悩の周りで起こる、詩的で悲しい寓話のための音楽にあふれた視覚的舞台作品。日本的な魅力いっぱいの良い驚きを味わえる。

セシルは迷い、バイオリンを手に取り、いくつかの音符を弾いてみる。また置き、また始め、失敗し、頑固になり、あきらめ、やがて眠ってしまう。

すばらしいバイオリンの曲自体もこの優しい旋律の作品にリズムを与えているが、舞台上の少女が弾くことによってさらに清廉なシンフォニーになっている。それは同時にダンスやマイム、ジャグリングによって強調され、激しく競い合う肉体のシンフォニーでもある。

たくさんの美しさで驚かされた観客に対して、まだ楽しさはほかにもある。それはこの素っ気ないがかわいい部屋の中で、男によって企てられた論争や二人によって演じられるドタバタ劇、差し込まる音響効果などによって形作られてくるストーリーである。

発せられる言葉がないこの舞台では、視覚が圧倒的に支配する。しかし、主人公は気持ちを厳密に言葉に置き換える必要はない。
軽快でやわらかい動きや、正確でゆっくりした動き、あるときは悲しく、あるときは面白い目つきや表現豊な表情は、十分にこの物語を語っていく。
物語は、懐疑心のとりこになり、自信をなくし、自己嫌悪になり、あきらめる前に息を切らしているバイオリン弾きの娘の部屋に一人の老人が現れ、まるで自分の人生のページをめくるがごとく少女の楽譜をめくり、彼女の音楽に再び喜びを足していくことに骨を折るというものだ。

娘が映像の中で、優しかった先生の見つめる下で、そして娘を見守る男とともに完璧な演奏をするとき、見るものは自らの中にある感情のパレットをなぞらずにはいられない。そしてその中の多くがいくつかの涙が落ちるのを止めることが出来ないであろう。

この作品はすべての人に当てはめられるように、二人の二重奏の暖かな姿から観る者のノスタルジーを呼び覚ます。力強さとやさしさ、この作品は日本によって裏打ちされた特色によって満たされた夢のような世界に私たちを誘ってくれる。強烈な作品。            
                                          
―ジュリー・オラグノル

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≪2人の一つのデュオ≫

一時間のスペクタクルは最小限の言葉さえ発しない。
私たちを懐疑的にさせることがある。これはまだ演劇なのか?
間違いなく、振付師で演出家の奥野衆英が音楽とダンスを混ぜて独創的な構築のクリエーションをする時、それは間違いなく流儀の概念から逸脱している。

話は単純です。一人の若いヴァイオリニストが彼女の慎ましい部屋で繰り返し愛を夢見ています。コンサートの日は近づいているのにそのヴァイオリンは常に悲鳴を上げています。
彼女は彼女の祖母の言葉を思い出します。「 笑わなきゃだめ、そしてあなたが陽気でいないと」、その励ましもオーケストラの指揮者の非難する声によってすぐに打ち消されます「違う、違う、違う!」。

そして、椅子の陰が映った床から人間の形をした「精」が現れる。この精が彼女に迷惑をかけ楽しませ、そして勇気付け励ます。
このお話は若い少女と老人の出会いの話であり、この奇妙な霊の存在の意味は少しずつ明らかになっていく。しかしながらこのお話は私たちに語ることはせず、想像させ、感じさせ、見ることを要求し耳を傾けさせる。

このスペクタクルの魅力は音楽をいろんな形で扱う独創的な手法にある。まずこの日本人二人の演技は創造性の点で、そして作曲家チョウ・ヨンウックと市瀬詩子のバイオリンのコラボレーションのもたらした成果の点で明らかに他とは違う。セリフからの開放、音の視覚的、肉体的描写における非常な才覚によって、彼らはこれまでの伝統的な形の音楽作品の新境地を開いている。

このように、水が部屋の中で小さな音を立てて落ちたり窓が軋んだりという繊細な身振りをしつつも、この娘から見えていない男はジャグリングをし、マイムをし、踊ったりアクロバットをしたりして、この一生懸命バイオリンの練習をしようとする娘を邪魔する。
彼女が反抗したり逃げようとするとき、バイオリンは騒音を立て彼女の支配から逃げていこうとする。
Une performance musicale un peu maigre pour une virtuose, me direz-vous ? 彼女の才能は男が現れることによって霊的な息吹と天才的ないたずらの間で揺れ動くことによって目覚めていく。

俳諧のごとき振り付け。このスペクタクルはユーモアと優しさに刻まれた詩的な瞬間の数々がうまく作用することによって私を魅了する。ポットの中で大きくなっていく花、空から落ちてくる羽、自然が昇華させられた瞬間の詩的さ。

最後になるが、テーマの象徴的な特徴や視覚を中心に置いた演劇化は、観るものにたくさんの記憶を呼び覚ますことに貢献している。夢幻的に純粋な解釈は、彼女が一流の演奏家になる夢に近づくための強い憧れが反映させられたものだとしても良い、あるいはすべてが夢想的なものだと。
椅子のきしみや、少女の疲れ、愛の小説などと一体化しながら、この「精」もまた愉快ではあるが、美しく詩的なな表象のひとつだったのかもしれない。彼はまた演奏家として栄光に包まれながらも戦場に散った独立した一人の存在でもある。
夢の中に、あるいは想像の流れの中に私たちを誘う舞台作品。
                      
―クレール・スタヴォ

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いくつかの記事は私たちの意図しない解釈をされていますが、それはそれで良いと思っています。

桜文月社主宰・奥野衆英に関してはこちら
”最初はみんなゼロだった。Interview with Creators in Paris.”
前編後編 

朝日新聞文化面に掲載された記事です
”アビニョン演劇祭で無言劇 マルソーの弟子ら”


衣装打ち合わせ1_b0178452_9492444.jpg
(写真は小田光氏撮影)
まま、見ている側には難しいことは何も無い舞台なので、今年もアヴィニヨンを楽しみにスタッフに助けられつつ無事故で健康に演じてきます。
記事に関してはフランス語が理解できる方は原文のほうが奥深いと思いますので、そちらでお楽しみください。
by shuta75 | 2009-05-18 10:15 | 舞台